ケニア、種を蒔く

目の前にあるものに徹底的にこだわるということ

3月の中旬頃だったか。
ぼんやりとではあるが、活動が何かうまくいっていない不安に襲われ、
ちょっと(でもないけど)ストレスを感じていた。
赴任して1ヶ月も経つが、まったく来た1日目から何も進んでいないじゃないかと思われたのだ。

赴任する前、昨年の10月から12月にかけて二本松の研修所でみっちりと派遣前訓練を行ったのだが、
この訓練中には外部講師を呼んで講義を行う。
これがけっこう著名な先生方が来られてびっくりするのだが、
例えば、橋爪大三郎先生やアントン・ウィッキーさんなど。
そして、その講師陣の一人に木村秀雄先生もいた。
木村先生は以前、南米で協力隊をやっていたOV。
(よく協力隊OB・OGはOVと言っている。"Old Volunteers"の略かな)
木村先生が行われた「異文化の理解と適応」の講義はここで聞いた中でもピカイチで、
学生時代、こんな授業を聞いていたらきっと博士まで目指していただろうな、
と思うほど自分にとっては素晴らしい講義であった。

さて、この3月の焦っている最中、
カカメガでいきつけの"kula corner"というレストランでホワイト・コーヒーを飲みながら、
講義中に配らされたプリントをもう一度振り返ってみた。
やはり、示唆に富む内容である。
この時の資料を読み返してみて、今いちど大切なことを思い返すことができた。

いつも自分は偉そうに口では文化に優等も劣等もないとか言いながら、
約束を多々すっぽかされる、プロフェッショナルとしての仕事の質が低い、
二度手間三度手間ばかりしていて効率が悪いとか、
どうも日本に比べて不便だとか劣っているとかの判断をついケニアではしてしまう。
こんなふうに思ってしまうのは、
誰しもが自文化中心主義(Ethnocentrism)から逃れられないことからなのかもしれないけれど、
これを読み返して、改めて気づかされたことは大きかった。
常日頃からフラットな考え方でいたいという思いがあるのだが、
やはり日本文化で育った規定からは逃れられないものがある。
なので、まずは自分が日本で生まれ育ったということを認め、
そのことを踏まえながらも他国の人間の考え方を想像する。
そんな態度で異文化とは接するべきなのかもしれない。
「目の前にあるものに徹底的にこだわること」
この事の重要性を木村先生は何回も繰り返していた。
目の前にあることをあるがままに受け止める。
今はちっとも受け止めることができていないけれど、
きっとこういう態度でしかインタラクティブな交流はできないということを肌で実感できるようになったのは、
つい最近だ。

任地に来てから振り返ってみると、
目の前のことに集中していなかった。
どこか全力で受け止めていない自分がいたのは確かで、
つい、自分がこうあるべきはずだ、というイメージを頭の中に思い浮かべ、
それを現実社会に当てはめていくような具合である。
自分の想像から現実が違っていた場合、
「だからケニア人は!」とか「やっぱり日本は楽だ!!」
みたいに考えていた節があった。
逆であろう、現実があってそれに合わせて自分を適応させなくてはいけない。
今までの考え方、これは逃げの考えである。
でも、そりゃそうだ。
多少なりとも海外に住んでいた経験があったけれど、
基本は日本をベースにしていたので、ここケニアでは圧倒的にその環境が違いすぎる。
困難で不慣れなことばかりなのだから、隙あらば逃げたくもなるが、
しかし、自分で好き好んで協力隊に来ているので、
そんな弱音は逆立ちしても口に出せるわけがない。
では、どうしよう?
まずは自分の弱さを認めながらも、体一つで他者に向かい合うことか。
異文化の中で味会う苦しさや快感を体感する為には、
もがき苦しみ、不機嫌なことを多々経験する羽目になるであろうが、
しかしそれでも、いま目の前の現実世界に照準を合わせないといけないのだ。

今度の月曜日から2学期が始まる。
この学期、まずは目の前にあるものに徹底的にこだわっていくことが目標。


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by tanewomaku | 2011-05-08 06:18 | ケニア